地震・津波の記録

被災現場

 これまでの人生経験からは思いも及ばない、普段の生活からかけ離れた惨状の中で、3月12日の夜を、二男、それと愛犬アミと迎えました。
周りの家の2階でも懐中電灯の光が見えていて、我が家同様避難所へは行かず、2階で夜を過ごしている家が幾軒かあるようでした。
食料は2~3日は大丈夫そうな量はありましたが、排せつの方が心配でした。
ここで食べ物を食べてしまうと大便が出てしまいます。
トイレが使えない状況で、痔持ちの身、食べ物はほんの少しだけとしました。
飲み物については、愛犬はダイニングテーブルの上にあって助かったポット内の水、人間はペットボトルのお茶等の飲み物を飲みました。
やはり愛犬優先です。
非日常のサバイバル的な状況ではありましたが、悲壮感は少なかったと思います。
 睡眠は自室のベッドでとりました。
服装は汚れた上着だけ脱ぎ、2階にあった服を重ね着しました。
ウエットティッシュが見当たらず、手を洗うことが出来なかったので、乾いた布で手や顔を拭くだけでした。
寝ていると、ヘドロが乾き、砂として落ち、ベッドを汚していると感じられましたが、どうしようもありませんでした。
それでも、後日経験する避難所での睡眠より、よほど快適でした。
度重なりやってくる余震にも、我が家は大丈夫という安心感から、それと、日中の疲れが重なり熟睡できました。

 翌13日、片付けの合間で役場の避難所に行ってみました。
役場までは迂回が必要で、約3キロ半程の道のりです。移動は我が家の庭に流れついた自転車を利用しました。
昨日は水に浸り、ご遺体まで浮いていた道路ですが、今日は濡れてはいますが水が引き、消防の車が列を作って並んでいました。
いよいよ本格的に救助、復旧作業が始まるものと大きな期待が胸に湧いてきました。
消防車はすべて県外ナンバーで、遠路駆けつけてくれた車両でした。
その活動の尊さに限りない感謝の気持ちがこみ上げ、車両とすれ違う度、ありがとうございますと告げ、頭を下げ、思わず涙がこぼれていました。
自分も仕事上ではありますが人のため、精一杯やってきたつもりでははりますが、この被災現場にいると、何もできない、あまりにも小さな存在、ただただ、小さく思えてなりませんでした。
そして涙がこぼれるだけでした。
 そのような思いで着いた避難所には、沢山の人がごった返していました。
初めて目にした避難所は、思いのほか日常的な服装の人ばかりでした。
すぐ目の前は津波被害の惨状が広がっているので、自分のような泥だらけの服装の人だらけ! そのような漠然と思っていた避難所の状態とは服装的には違っていました。
泥だらけの服装という意味では、自分が一番被災者らしく見えたと事と思います。
そのような泥だらけの服装でいたためか、見知らぬ人から度々声をかけられ、被災現場の状況を尋ねられました。
服装的には泥汚れのない人でも、自宅が跡形もないとか、家族が流されたままという話を聞きくと、その方の被災状況が実感的に想像できまました。
普通の、汚れのない服装ではあるものの、皆さん被災者なんだと、ひしひしと伝わってきました。

 そのような多くの人の中では、なかなか妻とは巡り会えませんでした。
先日二男が巡り合えなかった訳がわかります。
そこで、救護所に母親を訪ねてみると、妻は救護所で看護師としてボランティアをしていることを知りました。
そして今は薬をもらいに外出しているという事のようでした。
帰ってくるであろう方向の、役場庁舎前でしばらく待つことにより再会することができました。
妻の顔を見てうれしく思ったのは何十年ぶりだったでしょうか…!
妻は避難所の伝言板や人からの情報をいろいろ仕入れていましたが、長男、嫁の無事は確認できていない状態でした。
楽観的に思っている私とは対照的に、妻はかなり心配していました。
お互いの無事を確認できたので、その後、山元町に一緒に来た人と落ち合う約束をしていた宮城病院に行ってみました。
宮城病院は6年ほど前、転勤により離れましたが、15年間勤務していた馴染みの病院です。
 国道6号を南下して宮城病院へ自転車をこいで向かいました。
6号は津波被害は受けていませんでしたが、地震で亀裂が入ったり、傾いたり、うねったりしていて、自転車で渡るには危険で、手で押さなければならない箇所もありました。
ヒッチハイクで乗せてくれて相馬方面に向かった方は無事だったのであろうか、親戚の方はどうであったのだろうかとの心配の思いが巡りました。
 6号を進み、高瀬交差点のセブンイレブン近くの東側では津波が押し寄せた痕跡が見られました。
こんな6号近くまで来たのかと驚きを覚えました。
それでも宮城病院近くの6号は被害が無いようで、比較的平易に宮城病院にたどり着けました。
 そして、その宮城病院では久しぶりのトイレをすることができました。
宮城病院は停電はしていたものの自家発電により必要最低限の電力供給がされていて、井戸水をくみ上げ、水が使える状態でした。
用をたして、もちろん下腹部がすっきりしましたが、ヘドロで汚れきった手を、きれいな水で洗えたことに、限りない幸せを感じました。
人って手を洗っただけで、こんなにも幸福に思えるのかと驚くほどでした。
 宮城病院には沢山知人が働いています。
今まで水分といえば、ペットボトルのお茶しか飲めていなかったので、ともかく水を飲ませてもらいました。
ただの普通の水ではあったのですが、とてもおいしく思えました。
ついでに暖かい飲み物までごちそうになりました。
本当は水だけではなく、病院であれば電話が使える状況になっていると期待していたのですが、固定電話、携帯電話、公衆電話すべて使えない状況であり、病院も孤立状態のようでした。
また、落ち合うはずであった人は前日に来たものの、今日は来ていないということでした。
宮城病院とその発災当時働いていた仙台医療センターは同じ国立病院機構の病院であったので、知人に我が家の被災の状況をお話しし、しばらくは仙台の職場には行けないという事の伝言を頼みました。
 自分の津波被害の状況を話しながら、宮城病院の状況も聞いてみました。
宮城病院は少し高台に立地しているので、津波被害は何もなかったはず、という思いを抱いていたのですが、そうでもなさそうでした。
津波はすぐそこまで来ていたという話を聞かされ、その時は誇張した話と半信半疑でした。
後日、弘前に移り住んでから、ユーチューブで宮城病院から撮影したという津波来襲のビデオを見て愕然としました。
 映像には病院の南側、坂元方面の家々を押し流し、ものすごい勢いで突き進む黒い濁流が映っていて、やがて病院のすぐ下の水田にまで達していました。
カメラが東側、山下、笠野方面を映すと、そこはすでに濁流にさらわれていて、一面の海と化し、家の屋根がわずかに見えていました。
海岸線の防潮堤前は本来防砂林が広がり、波打ち際は見えなかったのですが、防砂林の木々はわずかに残るだけで、水平線まで海原が見える光景が映っています。
その木々の高さよりはるかに高く、津波が幾重にも押し寄せていました。
その津波の色は海の青さの色で、色だけであればきれいと表現できるくらいです。
他の被災地で撮影された津波来襲の映像は、津波が黒く汚れたものばかりであったのでその違いに驚きました。
そそり立つ津波は、その波頭を白く砕きながら押し寄せています。
我が家も含め、平野部が壊滅的被害となったことが、この映像を見ればわかる、そんなすさまじい映像です。
その映像はユーチューブに公開されたり削除されたり、再び公開されたりしましたが、2023年5月現在アカウントが停止されているようで視聴することができません。
なお、この映像は2011年12月30日に放送されたフジテレビ系列の ”わ・す・れ・な・い「津波てんでんこ」の教え” で津波メカニズムの解説に使用されていました。
こんな波がわが町を襲ったのかと、深い感慨を持ってしまう映像であり、津波来襲の真実の伝える貴重な映像と思います。
ただし、被災した直後は、どのような津波であったかを知るより、はまずは生きてゆくことでした。
 病院の出入り口には別の友人が忙しく働いていました。
その友人も宮城病院職員なので、仕事の邪魔をしてはいけないと、傍らに立ち被害の状況を聞いてみました。
その友人の家はまだほとんど新築の家であったのに家ごと流されたということでした。
家族については、2階にいた状態のままで流されたものの、幸いなことに無事に助かったということを聞き、とても安堵しました。
お互い頑張ろう、と励まし合うとともに、そのような被災をした境遇であっても、ひたすら人のため働いている姿にエールを送りつつ、今、自分が置かれている境遇への対処をすべく、被災した我が家に帰りました。

 この日の夜も自宅2階で二男とともに過ごしました。
ただ、愛犬に関しては、昨夜怪しい人影がうろついていたという二男の話を聞いたので、物置内に乾いた敷物を敷き番犬として物置内で夜を過ごしてもらうこととしました。
 夜も更けてきて、寝ているところに二男が起こしに来ました。
外に誰か来ているということでした。
自衛用に用意していたバットを手にして不審者の様子を2階からうかがいました。
暗闇に目を凝らすと、男性らしき黒っぽい人影が動いているのがわかりました。
その人影はカーポート辺りから敷地内に入り、物置近くでガレキに腰掛け、たたずんでいるようでした。
距離を置いてアミを見ているようでした。
アミは不審者に向け威嚇して吠えていました。
我が家を守ってくれているようでした。
そのような状況がしばらく続いていました。
もし、その不審者が我が家に入ってくるようであれば、息子と二人して迎え撃とうと息をひそめ、その不審者の行動を見守りました。
しかし、その不審者はしばらく敷地内にいたものの、我が家の敷地を離れ、隣家のほうに向かって行きました。
すると、誰もいないはずの隣家の一階の室内で、懐中電灯の光が走りました。
懐中電灯は室内を動いているのがわかります。
そして、懐中電灯の光はやがて西側の部屋にやってきました。
その部屋にはご遺体があります。
日中、ガレキに上では可哀想、警察の検視もすぐには望めないということで、みんなでご遺体を隣家の自宅に移し、その部屋のベットの上に横たえていたのです。
おそらく、その不審者は、ご遺体をみてさぞかし驚いたことと思います。
盗み目的の侵入であれば、財産が残っているであろう2階に行くはずでが、光は遠ざかり、2階に懐中電灯の光がさすことなく明かりは消えました。
その後も再び我が家の敷地内に侵入してきたのですが、建物に近づくことはなく、いなくなりました。
翌朝、隣家の方に状況をお話ししましたが、特に荒らされた様子はなかったということでした。

続きは避難所にて

















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