地震・津波の記録

巨大地震の発生

 2011年3月11日金曜日、14時46分、牡鹿半島の東南東約130km付近の沖合、深さ約24kmを震源として平成23年東北地方太平洋沖地震が発生しました。
 この地震、また、それに続く津波、余震等の一連の災害を東日本大震災と呼ぶことが4月1日に決定されました。
この地震はプレート境界で発生する海溝型地震で、震源域は東北地方から関東地方にかけての太平洋沖の幅約200km、長さ約500kmの広範囲にわたるものでした。
 地震の規模を示すマグニチュードは9.0で、大正時代の関東大震災(1923年)の約45倍、阪神・淡路大震災(1995年)の約1450倍のエネルギーの地震であり、日本の観測史上最大の地震でした。
 世界的には1960年のチリ地震、1964年のアラスカ地震、2004年のスマトラ島沖地震に次ぐ4番目に大きな巨大地震となっています。
 最大震度は宮城県栗原市築館で7、私がいた仙台市宮城野区で6強という震度を記録しています。
この震度7と6強の人の体感は気象庁の震度解説によると、同じ体感・行動で表現されていて、「立っていることができず、はわないと動くことができない。揺れにほんろうされ、動くこともできず、飛ばされることもある。」とされています。体感はまさのこのような状況でした。
 14:46の発災時、私は震度6強を観測した仙台市宮城野区内、仙台気象台近くの仙台医療センター内で仕事をしていました。
 仕事をしていた建物は病室とは別棟の地下1階、地上3階の鉄筋コンクリート造のビル内の1階、会議室内でした。この建物は最新のビルではありませんでしたが、昭和53年の宮城県沖地震後の建築基準で建てられたビルで築二十数年経過したビルです。
 なお、仙台医療センターは2019年5月免震構造の建物に新築移転し、震災当時の建物とは別の建物となっております。
 私は打合せがあったので、会議室に移り、椅子に腰掛けた、まさにその瞬間に地震に遭遇しました。
地響きが聞こえたかと思った直後、すさまじい揺れが襲ってきました。
腰掛けから直ぐに中腰に立ち、テーブルに手を添えた状態で「おお~、でかい」と思わず言葉が出たと思います。
揺れは立ったままではいられない、何かにつかまっていなければならない、過去に経験したことのない強い揺れでした。
 最初の大きな揺れで、何かが倒れ、壊れるような大きな音が会議室の外でしていました。
強い揺れは弱まることなく、更にその強さを増し、周りからは更に物が倒れたり、落ちて壊れる大きな音が断続的に聞こえてきます。
 揺れはじめてからほどなく、建物内は停電となり照明が消えました。
本来ならすぐに自家発電に切り替わり、非常用照明が光るのですが、しばらく光らなかったように思います。
自家発電も機能できないほどの破壊的地震かと思いを巡らせましたが、少し時間をおいて非常用の照明が光り出しました。
 私がいた会議室の北側は、ほぼ全面ガラス窓となっていて、窓用ブラインドにより薄暗くはありましたが、室内の状況を見るには十分な明るさでした。
 姿勢は両手をテーブルに置き、椅子から腰を上げた中腰の状態で、しばらくその姿勢を保ちました。
姿勢を保ったというよりも、その姿勢から動くことができないというような状況ではなかったでしょうか。
その姿勢のまま、今いるこの場所は安全か、と、部屋の中を見回しました。
室内に書棚等はありましたが、自分からは2m程離れた場所にあり、倒れても危険ということとはなさそうでした。
ロッカーも有りましたが、倒れても自分にまでは達しない位置でした。
 危険を感じたのがコピー機でした。
大きな揺れでコピー機がロッカーの方向へ動き始めたのでした。
このまま大きな揺れに乗って勢いを増し、向きを変えて、こちらに向かってきて、自分にぶつかることにより大きな怪我をする、そんな思いが駆け巡りました。
このままではいけないと、まだ動きが大きくないコピー機をつかまえ、壁に押しつけ、動き回らないようにしました。
具体的にどのように動き回らないようにしたか忘れてしまいましたがともかく動き回らなくなりました。
 これで室内の危険を回避できたという思いはありましたが、尚続く大きな揺れに恐怖心がわいてきます。
ただ、その恐怖心は33年前の1978(昭和53)年、学生時代経験した宮城県沖地震に比べると小さなものでした。
というのは、33年前の宮城県沖地震では、大きく揺れた瞬間、このまま建物が倒壊し、建物と共に埋もれてしまうという死を覚悟したからです。
あのときいた建物は学生サークル棟で、大正時代築ともいわれる、とても古い2階建てのレンガ造りの建物で、その2階にいました。
大きな揺れで、すぐ後ろにあった書棚が倒れてこないように、必死に押さえていると、天井からは土煙が上がり、小石も落ちてきて、そのとき思ったのは、天井が落ち、床が抜け、このまま建物が崩落し、死んでしまう、そんな死へのプロセスが頭を駆け巡った事を記憶していました。
 幸いなことにその大正時代築という古いレンガの建物は倒壊せずにすみ、その後の人生が続きました。
この宮城県沖地震により建築基準が見直され、耐震性が高まったと聞いています。
でも宮城県沖地震は当時のスケールで震度5(今のスケールでは5強?)、今回の地震は6強、物理評価では明らかに今回の地震の方が揺れが大きく、そして強く、過去の宮城県沖地震の恐怖心が強かったのは、あくまでも居合わせた建物の信頼性からくる心理的なものであります。
 揺れている間に、このような過去の宮城県沖地震のことを思い出しながら、99%の確率で来るといわれていた宮城県沖地震がいよいよ来たな、という思いがありました。
 仙台医療センターではこのような日に備え、防災研修・訓練を重ねておりました。
自分が先ずすべきは、科内の被害状況を確認するという事でありますが、なかなか揺れがおさまりません。
強い揺れは、あたかも起震機の上にいるかのようにも感じました。
酔うような揺れが延々と続くように襲ってきます。
 これだけ大きな揺れが長く続くと、さすがにこの建物も危ないのでは、と、不安もよぎりました。
数年前の地震の際、体育施設の天井が崩落するという事例が仙台泉区でありましたので、天井のことが気にかかりました。
 不安が出だすと思考能力も空転し、気持ちだけが急ぎ出し、現実が夢見心地であったかのように思います。
 地震の間は、揺れはまもなく収まる!…、という期待の念でじっと耐えていましたが、その思いとは裏腹に、とても、とても長く、これでもか、これでもかと繰り返し強い揺れが襲ってきました。
もういい加減にしてくれ、大地よ勘弁してくれ! と思えるほどでした。
不思議なもので、揺れの始めに轟きわたっていた倒壊音はその鳴りをひそめてきました。
倒れるべきものはすべて倒れたのでしょう。建物のきしむ音と地鳴り、激しい揺れが延々と続きました。
 その揺れの間で、家のことも少し頭をよぎりました。
我が家は家を建てる際、地盤調査を行い、その結果から補強工事を行っています。
建物自体はパネル工法により耐震性には自信がありました。
家具についてもほとんどのものを内壁に固定していて、建物自体には不安を募らせることはなく、家族については家にさえいれば安心であると思える位でした。
 記録によると揺れが続いたのは約3分半、ようやく本震は終焉となりました。

続きは地震の後
















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