地震・津波の記録

自宅の惨状

 自宅まで向かってきた記憶は比較的覚えているのですが、自宅についてからの記憶は、衝撃性の強いものだけを記憶している程度で、断片的にしか思い出せません。
 衝撃的なことが多すぎて、脳内で記憶として残す閾値が高くなってしまったのでしょうか。
 敷地内には2階から二男に入れそうなところを見つけてもらい、声で誘導され、なんとか庭に入りました。
庭には我が家のものではない、様々なものが沢山散乱していました。
ガレキが無いところであっても一面黒く厚いヘドロで覆われていました。
玄関ドア前にはガレキ、ヘドロが積み重なっていて、取り除かないとドアが開けられそうもありません。
他に入れそうな所を探すと、玄関の左手・西側は和室の続き間となっていますが、その続き間の奥の和室の掃きだし窓が壊れていて、そこから家の中に容易に入ることができました。
変わり果てた1階を通り、2階で二男と母親の無事を確認できました。
 妻、長男夫妻の無事についてはその時点でははっきりしませんでした。
妻は週に2回ほどデイケアの施設に看護師としてのアルバイトに行っていて、ちょうど昨日はそのアルバイトの日でした。
デイケアの施設は海岸線のすぐそばにあり、もし、その場所にとどまっていれば絶望的な場所です。
 ただ、妻はそこにとどまっていたわけではなく、地震後に一度家に帰って来たそうです。
その後、避難所に避難させた施設の利用者の状況を確認するため、再び避難所に出かけたとのことでした。
そのまま避難所だけに行っていれば良いのですが、少しだけ不吉な思いが心をよぎります。
 長男夫妻については、状況がわからないということでしたが、1週間ほど前に入籍したばかりで、お嫁さんの実家に普段からよく行っていたので、そちらにいるものと思いました。
お嫁さんの実家は仙台市袋原、土地勘はありませんが、名取の近くであると認識していました。
名取の国道4号近くであれば、先ほど通り過ぎてきた状況からして、大丈夫であろうという思いを抱きました。
それに長男は、過去に、九死に一生の事故で助かった強運の持ち主、妻よりは長男夫婦の安否について楽観視していました。

 地震による家の被害としては、家にいた二男によると止め具で止めていなかったダイニングの食器棚が一つ倒れたそうです。
食器棚が倒れたことにより、中の食器が割れ、ダイニングの床に散乱したそうです。
その割れた破片を、室内で飼っている愛犬が踏んでは危ないと、二男は愛犬を庭にある物置脇につないだそうです。
その物置内には、私と二男の愛車のバイクがあり、余震で物置内の物が倒れ、バイクが傷ついてはいけないと、物置外に出したそうです。
 その、バイクを出しているときに妻は家に戻ってきたそうです。
戻ってきた妻は、「津波が来るから、同居している祖母(私の母親)を連れ、避難所に避難するように」と、二男に伝え再びデイケアの利用者の待つ避難所に戻ったそうです。
 二男は母親の言葉に従い、普段二男が使っている車、フィットで一旦は避難所に向かったそうです。
しかし避難所に向う道路では、途中で交通が規制され、車を降りて歩くように指示されたそうです。
歩くのが大変な母親は、「とても歩けない」と、避難所行きを拒否し、自宅に戻ることとしたそうです。
 家に戻った二男は、車を敷地内の駐車場に止め、歩くことが困難な祖母のため物置から車椅子を持ってきて、祖母を車椅子に乗せたそうです。
門扉からアプローチを玄関方向へ進み、ふと後ろを振り向くと、そこには津波が押し寄せてきていたそうです。
急いで家の2階に駆け上がり、難を免れたということでした。
あと数分、家に到着するのが遅ければ津波に飲み込まれていたかもしれません。

 物置脇につながれていた愛犬アミについては、そのつながれた状態で津波に襲われました。
アミはけなげにも、流れてきたガレキの上にあがるとともに、次々と渡って、迫りくる津波ガレキから逃れていたものと思います。
 その時、実は別のドラマも繰り広げられていました。
隣家の高校生の息子さんが津波に襲われ、我が家の物置近くに流されて来たようです。
そして、息子さんは物置にしがみつき、屋根に這い上がり、難を逃れたそうです。
命を落としかねない切迫した事態であり、よほど必死の思いであったことと思います。
助かって本当に良かったと思います。
ただし、その状況については、二男が見ていたわけでは無いので私の推察です。
 二男が2階の窓から外を見たときに、物置の屋根にその息子さんがいたそうです。
物置のすぐ脇のガレキの上には我が家の愛犬アミがいて、2階からその息子さんに声をかけ、アミを拾い上げてもらったそうです。
二男と隣家の息子さんの共同作業により、愛犬の一命も取り留められました。
一人と一匹の命が、このようにしてつながれたことは、本当によかったと改めて思います。
その後、ある程度水が引いてから、アミは息子さんに抱かれ、隣家に避難したということでした。

 そのような話を聞いたので、早速アミを引き取るため隣家に出向きました。
アミはそのような大変怖い思いをしたためか、抱っこした私の体にしがみつき、なかなか離れてくれませんでした。
また、迎えに行った際、妻を津波後、避難所で見かけたということを隣家から聞きました。
それにより、妻は無事に避難していたことがわかりました。
反面、隣家のお婆さんが津波に流され、行方がわからないこと、また、いつも我が家に回覧板を持って来てくれる、道路を挟んで向かいのお婆さんも行方がわからなくなっていることを知ることとなりました。
 陽が高くなるにつれ、それまで無音、静寂の世界であった被災地にはヘリコプターの音が響くようになりました。
その時点ではこの状況で何をすべきか、どのように行動すべきかの考えを組み立て上げるという感じではありませんでした。
ラジオ、懐中電灯など当面必要になるものを見つけ出さなければ、との思いで1階の片付けを始めました。
このサイトにある被災直後の写真は、このような必需品の捜索の中で二男が見つけたデジタルカメラで撮影しています。
デジカメはダイニングテーブルの上に乗っていたのですが、そのダイニングテーブルが上に物を乗せたまま浮き、転覆する事がなかったので、水に浸ることなく助かったようです。
 自宅内への津波の進入は、建物西側和室の掃き出し窓からであると推察されます。
DIYで作成したウッドデッキかガレキか、何かが和室の掃き出し窓を破壊して流入したものと思います。
よほどの破壊的流入であったのか、西側和室にあったはずの様々なものが東側のリビングや北側の浴室等に流されていました。
他に建物東側リビングの掃き出し窓も大きく壊れていました。
リビングの掃き出し窓の壊された機序としては、和室から流れてきた津波の流れが、内側から衝撃を与えたためか、外側からの衝撃かはっきりはしませんが、和室の家財がリビング側に流されていたことから内側からの衝撃によるものではないかと強く推測します。
入り込んだ津波は1階床上140センチほどの高さの濁流で満たしたようです。
1階の家具・家材はヘドロの中に散乱し、数々の品を、それらにまつわる思い出とともに、ほぼ全て失うこととなりました。

続きはご遺体

















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